2016年7月4日月曜日

あとになって笑えるように

あとになって、笑えるように生きなさい。
「やっぱりやめておけばよかった」と言う風に、後悔するのではなく、「馬鹿だったし、辛かったけど、今考えると、あの時ああするのは良かったし、良い思い出になった」と笑えるように生きる。
この世界に、矛盾する真理はない。
真理は矛盾しない。矛盾しているようで、どの真理も、それなりに正しい。
それぞれが思うこと、意見することは、それなりに根拠がある。
環境的、経験的に考えて、矛盾する意見や真理は存在しない。
出来事においてもそうである。
起きるべくして起きることしかない。
原因は沢山あるが、矛盾はしない。
だが、自由にすること。
社会的に見て、その人しか分からないこと、その環境にしか分からないことは、沢山ある。
政府は、世界の全てを見ることは出来ない。
だが、統一は悪くない。
ある意味、同じにすることで、そういう限界を克服することが出来る。
それもそれで、矛盾はしない。自由と平等は、矛盾しないが、同じではない。
多重人格は辛い。治した方が良い。
人格を統合して、融和すると、治る。
世界は、精神病になっている。そんなに興奮するのではなく、落ち着くこと。
「良い」の頻度を少なくした方が良い。
そんなに「良い」がいくらでもあると、精神病になる。
辛くても、生きていれば、生きていることによって、楽になる。
全てを復活させて、生きること。それが、一番楽になる。治す方がおかしくなる。
そんなに全部信じるのはおかしい。
疑うことと、信じることのバランスを保つこと。それが賢い人間が、賢くなる。
ただ、どの人間もそれなりに賢い。
誰もが賢いから、自分の賢い点を考えれば賢くなる。
一番悪いのは、無いものねだりと分かったフリである。それが一番分からなくなる。
経験から、社会の可能性がどのように変えられるのかを分かった。
そこでは、矛盾するものは矛盾せず、間違っているものは全て正しい。
正しい思想とは、全部同じにしながら、全部自由にし、そして、その上で共有することだ。
辛いことは、いくらかしながら、生きていれば楽になる。
辛いことを、いつまでもしていると辛いように見えて、生きていると、その方が楽になる。
生きている、と言う本質は、楽になる、と言うことに繋がる。
昔のこと、古いことは、忘れること。昔、正しかったことは、今では正しくない。
今と昔では、自分は別人だ。昔のことを全部消して、今だけにすると分かる。
考え方から前提まで、何もかも変わってしまった。大人は、そのせいで分からなくなる。
厳密に考えるのも良いが、何も知らずに推論すると、誤った結果になってしまう。
当然のこと、仮想現実の実験結果から分かることは出来る。
ただ、自分が見ている世界は狭いし、普通だと思っていることも普通ではない。
世界を知って、社会を知って、自分の世界を広げて分かるのも悪くはない。
人間が何をしたくなるか、欲求、動機、きっかけを支配していた。
全体像の構造を作って、細部を全て知った。そして、推論から解明した。
議論を知って、会話して、この世界の実際のところを全て知った。
もう、何もしなくて良い。むしろ、辛いままで良い。
人格は統合しなくても、分裂したまま生きていれば楽になる。
そんなに治さなくて良い。
昔は、成り立ちと説明から、何でも成り立たせて分かっていた。
自分の言うこと、他人の言うこと、何でも正しいと思っていた。
自分の間違いは、そういう、ペテン師は一番悪い。
そういうわけで、正しいことを信じないと分からない。疑っても、どちらも正しくなるだけだ。ある程度の「普通」は、信じないと分からない。「自由な経験とそれによる善悪や社会形成」を信じると良く分かる。ただ、自由も自由で悪い。自由なんか、自由な中で、一番意味の無い考え方だ。
ただ、真実を分からないと思うのはおかしい。きちんと、経験と理性が合致するような、本当の真実や真理と言うものは、本当にある。だが、ある程度のレベルに達するまでは、ほとんどは戯言のような真実ばかりだ。だが、真実に到達しないわけではない。本当の真実の世界では、この世の全てははっきり、くっきりと、本当の理解と知と人間形成の中での、経験的で方法的でもありながら、それらに左右もされないような、本当の真実の世界に目覚めることは出来る。本当の真実の世界では、全てが美しくて、神も、自由も、平等も、支配も、解放も、あらゆることに正しい価値観がある。そして、美しいだけではなく、全部のことを実現出来て、全部のことを知っている。全知全能の神の境地では、カントでも、フロイトでも、ニーチェでも到達出来ないような、自分だけの真実の世界と言うものを、普遍的な考え方から知ることが出来る。
自由とは、真実を知ることであり、どうすれば真実が分かるのかを、沢山の考え方を使って自分で考えることだ。そして、何がどう生まれる中で、どんな条件や過程があって、それを自分の力、皆の力で、どう応用出来るのか、実現出来るのか、方法を共有出来るのかを考えることだ。そして、その上で、自由とは何なのか、理想とは何なのかを確かめることだ。
いつも、そういう、知性のあることを書いていたのが、自分だ。そういう文章を、2007年から2008年に書いていた。いつも、そういう風に賢かった。
あとは、部品のような論理と実像の考え方で分かっていた。
それから、経験に基づくことを言っていた。
それを可能にするためにどんな方法があるか、それを可能にすることで何が実現出来るか、のようなことを、考えながら、考え方とモデルで分かっていた。それをすることによる意味を考えていた。
現代物理が知っているように、宇宙で起きた全てのことは、宇宙が何らかの形で知っている。そういうわけで、バークリは存在を知覚であり、存在は存在しないと言ったが、逆に、僕は、どこにでも存在している沢山のものは、どこにも存在していないものと「存在と言う意味で同じである」と言いたい。
それはどういうことかと言うと、ある意味、存在しているわけがないものも、存在しているものと同じように存在していて、その存在も、そうでない存在と同時に、宇宙がその存在のことを誰一人知らなくても知っている、と言う意味である。
要は、RPGのグラフィックだけではなく、データやキャラクター設定のようなものも存在していて、今はないだろう未来についても、宇宙のどこかのデータとして、存在しているし、そして、木星や土星だけではなく、未知のまだ無いどこかの惑星についても、すでに宇宙は知っている。そして、あらゆる現象は同じように、宇宙が支配し、同時に、宇宙がその現象の存在を知っている。
そういうわけで、宇宙は全ての存在と非存在のことを全て知っている。宇宙は、神のすることについても、全て知っている。機械ではなく、舞台であり、脚本は神が書くのだろう。
キャラクターの設定が人生とともに存在している時点で、運命や戦いのようなことは起きる。だが、自由の無いゲームはつまらない。誰かがこの世界を変えて、良い社会を築くことは出来る。それぞれが出来ることはそれぞれに任されているから、何が出来るかは自分次第だ。だが、ある程度の基本的なところは最初から決まっている。何かのせいで失ったものも、最初から自分の力で取り戻すのが分かっている。そういう運命は、賢い人間にしか起きることが無いのだろう。
ゲームと言うと、戦って勝利するように見えるが、そうではない。この宇宙は、愛のゲームである。愛を持って、皆を愛して、その愛によって偉大になる。戦っても死ぬだけだ。愛を持って、勇気と希望を与えて、強く生きながら、世界の皆を愛する。仏教でいえば、慈悲のあるものがカルマが高まる。
社会を知って、自由の本当の意味を知り、社会がどうなるかの可能性を知り、自由な中で何をするべきかを知り、何が出来て、そこから何が生まれるのかを知り、それぞれの人間がどのような人間なのか、どういう人間であるべきなのかを知り、自然やありのままから理想を知り、自由と言う概念から環境と人生の考え方を知り、世界を理想の世界にする方法と経験を知り、可能性は自然な中から生まれる想像力であると知り、マスターとなる。
昔から、自分はそういう、人生的な自由の段階を書く。そういう文章が多かった。
全ては自由に出来る可能性、能力、経験、影響力であり、社会の形成はそれぞれに許されている合意と可能性であり、歴史とは価値観の形成と自然な積み重ねである。
いつも、そういう、社会的、人生的な、段階的な変革と進歩の理論を一行で書いていた。
あとは、社会のことは、理論的に、ゼロベースで、共有と組織のようなものから、多様性と過程のようなものまで、あらゆる共生社会を成り立たせて考えていた。
愛国と言うよりは、友愛だった。スラムと言うよりは、誰をも思いやる慈悲の心があった。
それで、救世主のようになって、革命家のようになった。
そういうわけで、これで憂国の政治家だったのが自分だ。
志とビジョンのある、ニーチェのような指導者だった。
だが、当たり前の平等と行き過ぎた自由が好きだった。そういう、左翼の王だった。
キャラクター設定が決まっているせいで、最初からこういう戦いをするのが決まっている。
だが、そうでもない。見ていると、全て決まっているように見えて、そういう風に考えると、良く分からなくなる。最初から、自由を信じると賢くなるが、それは間違っている。
良く分からない。真実は神にしか分からない。
1000年と1秒は同じだ。神にとって見れば、100年を作るのは、一瞬を作るだけだ。
昔は、詰め込んで、全て作って、全てを作り替えるような、そういう「創造と変化」の文章を書いていた。そう言うと聞こえは良いが、実際には自分の心で支配しながら、馬鹿な文章を書いていた。
日本の学校や教育の問題点は、知識偏重、事実偏重になって、知恵や自分で考える力を育てることが出来ない。そこが一番おかしい。
もっと、「新しい世界を知る」とか、「新しい経験をする」とか、そういうところから、「自分でどんな世界を作りたいか」や「この世界をどうすれば良く出来るか」のようなことを考えるようにしなければならない。
そういうわけで、一度、この世界を全く分からなくして、自分で考える必要が出てくるようにしないといけない。社会を悪くするわけではない。自分で考える必要の全くない世界を止めないといけない。そういう、「ロボット社会」が悪い。もっと、自由で、主体性があって、経験豊富で、賢い人間との会話や意見交換が出来て、じっくり考える余裕と機会と場所と手段があるようにする。
昔は、それがそうなって、それがその時どうなるかを、良く考えた。
一度、死んだ。そして、生きると楽になる。それで精神もほとんど全て治った。
環境への適応を増やすと賢くなる。
生きると治る。不思議と、精神がおかしいのは、全部生きるだけで治る。
学校で知った「自分は何をどう考えるか」と言う視点は、社会と人生を知るうちに発展して、科学や社会や人間のことを全部知って、マスターとなる。ヘーゲルは、それを自己意識から絶対知へと至る、世界精神の覚醒過程であると考えたのだろう。自分の場合、何をどう知るか、何がどう出来るか、何をどう正しく出来るか、何がそこで可能性としてあるか、目的に対して何が出来るか、皆で協力して何が出来るか、価値観や理想をどのように実現するか、どのように発想しどのように実現出来るか、のようなことから、科学、人生、社会、人間、心、理由、手段のことを良く考えて、あらゆることを段階的に、真実とは何かを考えることが出来た。真実の環境から、可能性とシステムを知ることが出来た。

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