2016年7月5日火曜日

欲求

欲求、感情、環境、行動などを、心理学的に、経験から分かっていた。
具体例から、社会、法則、基盤などの自然な可能性と変化を分かっていた。
森羅万象を、知性と「出来ること」から、「そうなればそうなる」の法則で考えていた。
言語、数学、都市設計、社会モデルなど、あらゆる森羅万象を考え方と発想で分かった。
怖いのは、悪いセックスとポルノ画像が悪い。
辛いのは、うつ病なのにパソコンで頑張るのが悪い。
子供に戻っているのは、子供時代の経験と精神がおかしいからだ。
生きていれば治る。昔のそういう辛い煉獄を忘れた方が良い。
自分は、もっと主観的なことを考えた方が良い。
たまに客観的になると良い。そうすると、ものごとのあり方のようなことが分かる。
昔は、主観と客観をバランス良く考えていた。
そういう風に、経験から考える方法を洞察すると、賢くなる。
賢い人間は、そういう人間が多い。そういうわけで、馬鹿が賢い。
馬鹿な方が知性がつく。主観だけになった方が、終わらない。
大人になって考えると、子供の頃に嫌いになったものは、全部間違っている。
自民党も、学校も、コンピュータも悪くない。
この世界に、悪いものは何もない。
悲惨なものやおかしなものも悪くない。
悪も、悲惨なだけだ。社会の方を良くすれば、自然に悪は消え去る。
何故か、社会がそんなに良すぎるのも悲惨だ。意味がない。
パソコンのUIは、Webページのようなページを中心に、EmacsやVimのようなコマンドやキーボードショートカットを作って、VBマクロのようなマクロを追加するような、そういうUIにすれば良い。
コマンドを入力して、ページを切り替え、ページを読み込んだり、ホームページのような高度なデザインのページを表示する。
そして、Chromeのように、プラグインや拡張でそのページの中でプログラムが動いて、ページに拡張が入り込んで、ページをさらに加工して表示したりする。
そして、GUIのボタンではなく、ページそれぞれにボタンやメニューがある。そういう、Webアプリケーションのようなインターフェースにして、タブで切り替えるようにする。クラウド的にも連携する。
さらに、モバイルのUIも作って、色んなところからページを表示出来る。GUIのボタンのようなものはなくなる。GUIでは、拡張をインストールし、キーボードショートカットを作る。そして、Emacsのように、色んなモードを作って、コマンドはUNIXのコマンドをもっとページ的に拡張したものを作ると良い。
それから、抜本的なOSの操作体系の見直しをする。いつでも表示するメニューやボタンは無くして、場合場合によって切り替えるようにする。そして、右クリック2回押して一般メニューを表示する、と言ったように、もっと沢山のショートカットを作って、ボタンとショートカットの関係を出来るだけ簡単に教え、覚えられるようにする。ヒントのようなものも、ただポイントやホバーをした時に表示するだけではなく、Wikipediaのように直感的に表示したり、どこからでもリンクしたり出来るようにする。
色々と難しいが、そういう、HTMLライクなインターフェースは、FirefoxやChromeなどを参考にすると良いかもしれない。
「ページ・アンド・エクステンション」と言う名前にすれば良い。
マウスも悪くはないが、キーボードのコマンド入力や実行も、もっと効果的にすれば良い。常にシェルを表示して、入力した内容は、ページに返ってくるようにすると良い。
昔は、デジタルな精神をしていた。
経験から、意識で人間のことを分かった。ネットの経験がそこまであった。
右翼も左翼も、自由も平等も、社会も理性も、成長も、現実も理想も、全部知り尽くした。
右翼は、何も出来なくなっているが、左翼は、馬鹿になっている。逆にも見える。
そういう、「社会を知り尽くした大人」のようなことを言う。そういう文章だった。
あとは、理性的な方法や認識とか、創造性や合理性のような理想のことを言う。
理想がどういう意味で理想なのか、どういう意味で同じなのか、などを言う。
そういう、「自由な中での類似性と、分析の当然な方法」のようなことを言う。
そういうわけで、信念が同じだとか、認識には方法があるとか、など、「実地的で段階的な、認識と分析の進歩の段階」を書いていた。
皆は、それぞれが頑張れば良い。そういう、「それぞれがする」と言う発想から、協力や社会を作る。そうして、「仮想現実の創造」のようなことを考える。仮想的な中で、歴史が正しくそれぞれの価値観と自由の力で発展し、多様性となって共同体となるような、「経験と自由の世界」を創造していた。
因果性の想像力、人生と経緯、そして政治と世界を創っていた。
歴史や弁証法から、全員を毎日創造した。
現実では、テレビと戦っていた。戦いとは言うが、ただ、愛していただけだ。
もうない。そろそろ、全部完全に書いた。
政治のようなものを、「それぞれが何を見て、何を知って、何を行動しているか」と言う、自由なモデルから考えていた。そこから、品質保証とか、色んなことを社会主義のように発想した。また、共同体と組織を作って、自由と共有とシステムの社会理論を考えていた。
あとは、人間の常識や先入観を疑う、自然科学の考え方も多かった。普段意識していないが、地球には角度やスピードもある。人間には、音、光(見た目)、熱、臭い、力、感触ぐらいしか知覚出来ないが、明らかに、動物には知覚されなくても存在しているような、もっと沢山の宇宙とものの属性が存在する。人間には何も分からない。自然現象も、どうにかすればコントロール出来る可能性はあるし、生命なんか、簡単に作れるのかもしれない。魂もあるように見える。ヘーゲルの言う、絶対精神のようなものもあるかもしれない。神はいくらでも居るだろう。
それこそ、皆が正しいと思っていることは、何も正しくないと疑う必要がある。そこまで行くと、哲学は宗教のようになる。神を信じないと分からない。不思議と、神を信じると、宇宙では本当に良いことが起きる。神を信じないものには何も良いことは起きない。
ネットの経験をしていると良く分かる。何が正しくて、どう考えるべきかが分かる。可能性を留保して、そのことを決める際には、どのように決めるべきか、逆に、それを決めることによって、何を実現出来るかが分かる。ネットにはそういうところが賢い人間が多い。社会のことも、経験から良く分かる。まるで救世主のように、社会の全てを知り尽くして、何をどうすれば良いか知ることが出来る。
賢くなるためには、論理学的なことを考えれば良い。特に、状況と可能性から条件や意味を考えると良い。ものは、作ってもらえる相手が居れば、作ってもらうことが出来る。それは、自分が作ったのと何も変わらない。そういう風に、社会的な能力や、可能性を実現する条件や、決定の連鎖や、原因を実現する経験のようなことを考える。昔は、それ以上、積み重ねたり、モデルと照らし合わせたりして、普通の人間より高度に、数学的なことを分かっていた。もちろん、推論や実験は多かった。
世界の構造と関係を知りながら、仮説を立てて実験すること。
ただ、そんなに難しいことは考えなくて良い。数式なんか要らない。言葉で、当然のように考えれば良い。何もかも、必然的にそうなるのか、それとも、相対的に変えられるのか、のようなことから考えれば良い。
経験を変えれば変えられるのか、絶対に変えられないのか、どう考えるのが賢明で、何をするのが愚かなのか、そういうことを考えれば良い。
経験的に考えれば何でも変えられるし、可能性を留保すれば色んな方法がある。
そういう、当たり前の中で、社会的、行動的に真理を見出すことが出来る。
そういうものを、哲学と言うのだと思う。むしろ、これでは宗教に見える。新しい自分の宗教の経典にしか見えない。むしろ、経典も多い。
社会とは、何なのか。それは、絶対精神のようであって、実地的な具体例の変化のようでもある。ただ、自分が思うに、出口の隠された迷宮のようなものであると同時に、それぞれがそれぞれのキャラクターを演じる、舞台のようなものでもある。社会的なことを言うなら、平等へとなっていく過程のように見えて、本当にそれぞれがそれぞれの「らしさ」を「ありのままに」生きることが出来るような、そのための、「目的を持った分配、調整、文明」の手段であって、「文化の変貌」であるように思う。最終的な文化は、「真実の価値観」を持った人間によって行われる。その価値観は、「それぞれ」の価値観であると同時に、「あらゆる」ものの価値観であるべきだろう。
真面目に考えて、社会では価値観の合意があれば良い。価値観の合意から、自由な共同体が生まれる。いつも、そういう真面目に考えて、色んな社会を作っていたのが、昔の文章だ。
認識は、実際の姿と関係性を考えていた。
あとは、オープンソースを考えていた。日本にはオープンソースがあまり根付かないが、それでも、オープンソース社会と日本には、共通点が多いと言っていた。
ただ、それは良く分からない。何故か、ロシアと日本は文化的に良く似ている。
良く知らないが、ロシア語では、名詞の後に格変化が付く。日本語の格助詞と同じだ。
それに、ありえない文字を使う。キリル文字と言うアルファベットのロシア版を使う。それは、おそらく、文化的に外国人の流入が少ないのかもしれない。
昔は、全部をいくらでも作りながら、社会のコピーのような文章を書いていた。
自分は、皆の方が賢いのが分かっていない。戦いをしないだけで、皆の方が賢くて、善人で、出来る人間が多い。むしろ、誰も2ちゃんねるをしないから馬鹿なだけで、むしろ、2ちゃんねるをしているから馬鹿なだけだ。自分が賢いわけがない。
皆の方が賢いのに、なぜか最近だけ、自分の方が賢くなってしまった。馬鹿なのに賢くなると、本当に賢くなる。自分は馬鹿だ。
むしろ、馬鹿だと思うなら、本を読むか、学校に行けば良いが、それはそんなに賢くない。自分はきちんと本を読んでいる。まだ、世界史の本の続きを読んでいる。ゆっくり読んでいるからそれで良い。
むしろ、もう一度パソコンのことがしたい。今度は、色んな技術の本を読みたい。経済学の本も読みたいし、心理学もしたいが、そこまでは出来ない。哲学はもう全部知ったせいでつまらないから、引き続き歴史になる。
哲学を全部知ったとは言うが、何も知らない。入門本をいくらか読んだだけだ。それで終わりになるのもありえない。何もしていないと思うから、こういう風にまだ生きている。
むしろ、パソコンの方が良く見える。昔読んだ、暗号技術の本は面白かったし、ハッカーと画家と言う本は昔一番好きだった。そういうわけで、パソコンは悪くない。昔は、Lispを良く分かっている人間だったが、何もしていない。マニアックな知識は多かったが、プログラミングなんか全く出来なかった。ただ、技術の歴史だけは良く知っていた。特に、UNIXとプログラミング言語の概説史に詳しかった。
社会を良くすれば、テロリストのような社会悪は減るだろう。だが、それだけでは社会が良くなったとは言えない。皆に理性と経験を与えて、この世界を本当に幸福な世界にするべきだ。そのためには、過度な発展と都会化が間違っているのかもしれない。豊かなのは良いが、何もしないのは悪い。
自分は、世界史なんか読まなくて良い。今、日露戦争のところだが、これ以降は20世紀で戦争と革命が起きているだけだ。適当に知っているからそれで良い。もっと別の何か良い本を読んだ方が良い。
自分は、デカルトやウィトゲンシュタインが良いと思う。あるいは、ユング心理学が良い。あるいは、数学の歴史、仏典のことば、経済学の入門などがある。ただ、もっと違う、新しい気分で読める本の方が良いかもしれない。それらは、もう、鬱屈とした「いつまでも同じ」と言う本の部類に入る。
学校は、全員平等に、強制するのが悪い。もっと自由に、好きな分野を学習するようにすると、きちんと良い学校になるのが分からない。やり方が古い。工場や軍隊のようにやるから間違っている。細胞の構造は、賢いのに、全員に強制するせいで馬鹿なものに見える。細胞の構造が好きな人間だけがやれば良い。そういう理由で、中学・高校は意味がない。大学だけにした方が良い。自分のように、専門的なコンピュータのことをやっていた方が、あとで哲学や歴史のことが出来る。そういう、自由な教育、と言うものを考えても良いだろう。
自分は、心理学と経済学のことをする。それが一番、自分に合っていると思う。
ただ、学校も馬鹿ではない。僕は学校は好きではないが、自分がプログラミングのことなんか何も出来なかった。Linuxは何も出来ていない。それに、数学なんか全く出来なかった。数学的に考える、哲学のようなものは出来たが、数式なんか解けていない。昔は、ネットで馬鹿になっただけの人間だ。学校はあった方が良い。最近は、昔の自分を賢いと思うのが間違っている。学校の方が賢い。学校が賢いだけだ。悲惨に、宗教や執筆がまだ賢いから、こういう人間になる。そういう人間が居ないせいで、本当に皆より自分の方が賢くなった。今考えると、UNIXのことも本当に沢山知っている。そういうわけで、自分も馬鹿ではないが、きちんと学校に行った方が良い。
むしろ、高校は、賢い人間に一般教養を全部教えたいだけだ。自分の昔を思い出すと良い。何もしていない。きちんと頭は賢いのに、一人だけで何年も何もしなかった。そのせいで馬鹿になった。本当に、遊んでいるだけの馬鹿は馬鹿になる。高校できちんと勉強している人間は多い。本当に、そういう人間の方が賢い。自分を馬鹿とは思わなくて良い。きちんとデカルトのように分かった自分を賢いと思えば良い。だが、大学や高校は悪くない。一般教養を全部教えているのは、大学にも多い。一般教養科目では、きちんと文系にも数学を教える。高校は賢すぎるだけだ。
あまり自分のことを哀れに思わない方が良い。皆それぞれ違うから、それで良い。不思議と、こちらの馬鹿な何もしない執筆の期間が、もう9年も過ぎた時点で意味がない。昔の遊んでいるだけの高校生なんか、たった4年間遊んだだけだし、あれはUNIXなど色んなことを勉強している。こちらの9年なんか、狂って馬鹿になっているだけで、文章を書く以外、何一つ行動をしていない。おかしいから、昔の方がまだ賢い。神のように賢い人間だった。自分は賢いから、何も悪くない。
頭がおかしいのは、おかしな人格を作り過ぎただけだ。こちらの経験で、本当にいくらでもおかしな人格を作った。機械みたいな人格が、まだ生きて、分かっている。それを殺すしかない。ただ、殺しても死なないから治らない。そういう人格は、何か大切な理由で生きている。そういうわけで、何も治らないまま、放っておくとすぐに治る。そういう、「治す」をしているだけだから、何も治さない方が治る。
自分は、本当に心理学と経済学に向いている。経済学は、昔の、自由で、世界を知って、世界を変えようとして、自由を本気で守ろうとした、そういう若い少年に向いている。心理学は、最近の、おかしくなって、本気で皆のことを正常に治そうとして、自分の心も治したくて、本気で頑張っている、そういう人を愛する娘に向いている。そういうわけで、昔が経済学で、今が心理学だが、それは逆にしか見えない。だから、心理学と経済学をやれば良い。それが、哲学と歴史の方に先に出会ってしまったが、それには向いていない。マスターだから哲学に向いていて、歴史には普通に向いているだけだ。ただ、歴史に向いているようには見える。本当にやりたいのは哲学には見える。

0 件のコメント:

コメントを投稿